[ネタバレ要注意]『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作目邦題の原題からの変更に関する考察

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[注意1]本投稿には『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』に関するネタバレを含みます。これから本作を視聴予定の方は、このままページをお戻りください。

[注意2]本投稿の内容は私の個人的な考えに基づくものであり、公式の見解やファンの方々の様々な意見に言及するものではございません。

昨年末、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』3作目の日本公開日と邦題が発表されました。

3作目の邦題は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3(原題:Guardians of the Galaxy Vol. 3)』で、昨年5月に公開された『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』同様に米国公開日よりも二日早い2023年5月3日(水・祝)に公開予定となった本作は、これまでシリーズで監督を務めてきたジェームズ・ガン氏のDC映画CEO就任や、マーベル公式サイト上のニュース記事にて”大団円“の文字が並んでいることからも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズに一区切りをつける作品となることが予想される、今年度公開予定の映画の中でも個人的に大注目な作品です。

そんな作品の邦題発表に際して、「あ、今回は原題と同じなんだ」という感想を持ったと同時に、ふと、当時物議を醸した2作目の事を思い出し色々と考えることがあったので、本投稿では3作目の公開を前に2作目邦題の原題からの変更理由・意図について個人的に考察して行きたいと思います。

ちなみに、今回の考察については既に何年も前に公開された作品に関することなので、もしかしたら既に公式で正解が発表されている可能性もありますし、他の方が同じ内容/異なる内容をまとめていらっしゃることも考えられますが、そういった内容を見てしまうと考え方や文章が引っ張られてしまいそうなので、敢えて調べずにつらつらと思ったことを書き連ねて行きます。

ここで記載する内容が既に議論し尽くされているありふれた内容であればゴメンナサイ。

原題と邦題の違いに興味を持ったきっかけ

本題に入る前に、マーベル作品とは一切関係ない話になるのですが、私が海外映画の原題と邦題の違いに興味を持つきっかけとなった作品を紹介します。その作品とタイトルについては当時も話題となった記憶があり、内容についてもご存じの方が多くいらっしゃるのではないかと思います。

その作品は2013年に公開された『ゼロ・グラビティ』です。

(ここから同作のネタバレに触れるので、これから『ゼロ・グラビティ』を観ようと思っている方はこちらのトピックをスキップしてください)

ゼロ・グラビティ』は、スペースミッション中にデブリによる事故で宇宙空間に取り残された男女が、スペースシャトルの破損や地球との交信不可という極限状態のなか2人だけで地球への帰還を目指すというSF映画で、全編を通してほぼ”無重力“の宇宙空間でのシーンが続き、最後には何とか地球に帰還することができた主人公が久々に自身の体に受ける”重力“を感じ、長い”無重力“空間生活で弱った足を震わせながら大地を踏みしめるという非常に印象的なシーンで終わります。

この最後のシーンは私が今まで観てきた映画の中でも特に印象的でかなり好きな作品です。

そんな作品の邦題『ゼロ・グラビティ』は、宇宙空間における”無重力“状態に焦点を当てたタイトルになっているのですが、原題は『Gravity(グラビティ)』で、邦題とは完全に正反対の”重力“を意味するものになっています。(邦題をベースにしているのでニュアンスが逆になってしまっていますが、実際に正反対にしているのは原題に対する邦題の方です)

邦題を原題から変更する意図について

私は『ゼロ・グラビティ』を映画館ではなく劇場公開後しばらくしてDVD化されたものを自宅で視聴し、前述のクライマックスシーンに感動した後に邦題(ゼロ・グラビティ:無重力)と原題(グラビティ:重力)の違いを知り、衝撃を受けました。

今でこそ、完全にウケを狙ったであろう原題の形を一切とどめない邦題の映画を沢山目にするようになりましたが、それまであまり原題を意識したことがなかった私は当時ぼんやりと「邦題≒原題の翻訳版」という認識でいたため、邦題として原題と全く逆の意味を持つタイトルの映画にショックすら覚えました。

あの感動的なエンディングを目にした人ならば誰しもが「本作にふさわしいタイトルは”グラビティ“だ」と思わずにはいられない、と感じるほど素晴らしい結末・映像であったためです。

そのため、そのことを知った直後はこの変更に憤りすら覚えた記憶があります(以下で触れますが、今はそんなことはないですよ)。

ではそもそも、何故このようなタイトルの変更が行われるのでしょうか?

そこには、映画が芸術作品としての成功だけではなく、興行としての成功が重要視されるという事情が大きく関わっているのでないかと思います。

もちろんお金のことは気にせずに自身の表現したいものを映画として作り上げられる方もいるのでしょうが、基本的に製作に莫大な費用が必要となる映画に関しては、興行としての成功(観客動員による収益)が得られなければ、次の作品の製作に移ることが難しい状況が多くあります。

つまり優先すべきは、劇場公開時に”如何にして多くの人に劇場に足を運んで作品を観て貰えるか“であり、『ゼロ・グラビティ』の場合は日本の観客に対して”グラビティ“よりも”ゼロ・グラビティ“というタイトルの方が集客力があると判断された、ということなのではないかと思います。

先にも触れた通り私はこの作品がDVD化されたものを家で観ました。つまり映画を観たうえでタイトルの事に言及していることになり、メインターゲットからは少し離れたところで後出しでコメントしているに過ぎません。

確かこの作品の劇場公開当時、いくつかのテレビ番組では作品内の注目ポイントとして「無重力状態の映像表現の素晴らしさ」を挙げており、確かに作品の結末に触れることが出来ない未視聴者向けの宣伝時においては非常に興味を惹かれる内容でしたし、劇場への観客動員に寄与するタイトルとして”ゼロ・グラビティ“を採用するというのは、実際に私を含めた視聴者側の関心を引くためには理にかなった判断ではないかと思うようになりました。

(原題は”グラビティ“として公開されているので、”ゼロ・グラビティ“が正解というわけでもなく、あくまで日本においては”ゼロ・グラビティ“というタイトルで無重力の映像表現をウリにすることが、より劇場への集客力向上につながるという判断がなされた、ということかと)

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作目の邦題について

ここからようやく『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の話題に入っていきたいと思います。

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の作品は基本的にヒーロー名(2作目以降はサブタイトル付き)となっているケースが多く、原題と邦題が同じである場合がほとんどなのですが、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作目は、数少ない原題と邦題が異なるケースです。

(原題と邦題が異なるのは、劇場作品でいうとこの作品と『マイティ・ソー バトルロイヤル(原題:Thor: Ragnarok)』くらいではないでしょうか)

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作目は、原題『Guardians of the Galaxy Vol. 2』に対し『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』という邦題が付けられています。

両方とも、作品で頻繁に登場する主人公ピーター・クイルの好きな”音楽“にちなんでよく使用されるキーワードではありますが、原題がシンプルな2作目を意味する”Vol.2(ボリューム2)“であるのに対し、邦題の”リミックス“は異なる意味合いを持つ言葉となるため、純粋な1作目からの続編である本作における邦題タイトルの原題からの変更については、当時ファンの間でその是非が話題になっていたかと思います。

私自身もずっとこの”リミックス“という表現がしっくり来ていない一人でした。

ただ、前トピックでも触れた通り、邦題の原題からの変更については何らかの意図が必ずあるはずで(必要が無ければ敢えて変える意味もないので)、特に、これだけ素晴らしく練りこまれたサーガを展開し続けているマーベルが、日本向けのローカライズとは言え無責任なタイトルの変更を良しとするはずがない、と今では考えるようになりました。

というわけで、ここからは本作の邦題に込められた意味について掘り下げて行きたいと思います。

掘り下げにあたり、まず”リミックス“という言葉について改めて確認してみると、Wikipedia上では

>複数の既存曲を編集して新たな楽曲を生み出す手法の一つ

>複数のトラックに録音された既存の楽曲の音素材を再構成したり様々な加工を加えることによって、その曲の新たなバージョンを製作すること

と表現されています。

つまり、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』というタイトルは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の”何か“を再構成し、新たな”何か“を生み出す物語である、ということを強調したかったのではないでしょうか。

ここでポイントとなるのは、本作で再構成される”何か“が”1作目のストーリー”ではない、ということです。

4つの”リミックス”

原題が”Vol.2(ボリューム2)“である以上、繰り返しになりますが本作は間違いなく1作目の純粋な続編であり、1作目の出来事を踏まえたうえでの新たな物語となっています。

では、本作が1作目の続編であり、かつ原題が”Vol.2(ボリューム2)“でありながら、敢えて邦題を”リミックス“に変えることで何の”再構成”を表現したかったのでしょうか。

私は、この”再構成”をキーワードとして本作を観直してみて、以下のような”リミックス“が含まれているように感じました。

(ここでは4つと記載していますが、実際にはもっと”リミックス“が含まれている可能性もあります。その点はご容赦ください)

1つは、主人公であるピーター・クイルエゴとの関係です。

クイルの生みの親でありながら彼の誕生から一度もその姿を現さなかったエゴは、それまで築くことのできなかった親子としての関係を本作にて再構築しようとします。もっとも、エゴクイルにコンタクトを取ったのは、人間的な親子関係の構築を試みたためではなく、エゴの本当の目的を知ったクイルは最後にはエゴと戦うことになってしまうわけですが…

そして2つめは、ガモーラネビュラの関係です。

義理の姉妹である二人はサノスによって常に戦わされ続け、ガモーラに負けるたびに全身を改造されていったネビュラにとって、ガモーラは憎むべき相手となっていました。そんな二人が本作で壮絶な(本当に壮絶な笑)姉妹喧嘩を繰り広げた末、ネビュラは姉への思いの丈をぶつけ、物語の最後ではガモーラも彼女に本心を伝え、それを機に姉妹としての関係が再構築されていきます。

3つ目は、クイルガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのメンバーとの関係です。

1作目で家族のような関係性を築いたメンバーたちでしたが、本作では生みの親である父親エゴの登場により、クイルは父親との関係を優先しかけます。その後、エゴの目論見が発覚し、強大な力を持つエゴの支配から抜け出すためにメンバーが再び力を合わせることで、チームとして、そして家族としての絆を再構築していきます。

4つ目は、クイルヨンドゥの関係です。

本作のヴィランであるクイルの生みの親エゴとの対比でもある育ての親ヨンドゥは、それまでクイルにとって、自分を誘拐しこき使ってきた忌々しい存在でした。しかし、エゴとの戦いで命を賭してクイルを救ったヨンドゥの本心は、ロケットクイル達に素直になれない本心を見透かしその理由を「お前は俺だからだ」と語るシーンや、最後にクイルに残した音楽プレーヤーから流れる曲の歌詞からも良く分かります。

(その後のエピソードになりますが、昨年配信された『ガーディアンズ・オブ・ギャラ クシー ホリデースペシャル』では、ヨンドゥクイルに対する愛情が更に描かれていましたね。あれは泣けました…)

ということで、4つの関係の”リミックス“を挙げてみました。

もしかすると『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』というタイトルは、単なる1作目の続編としての表現にとどめるのではなく、クイルや作品にとって非常に重要な要素である音楽用語を尊重しながらも、更に本作のストーリーに合致したキーワードを盛り込んだ、作品愛に溢れたタイトルなのではないでしょうか?

そう考えるようになってからは、本作の邦題がとても大好きなものになりました。

そんな”リミックス“やその後のホリデースペシャルを経てより強固なものとなった『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーメンバー達の3作目の劇場作品がどのような結末を迎えるのか、今年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』の公開が今から非常に待ち遠しいです!!

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